2024年5月19日(日) ローマへ!
こうして、わたしたちはローマに
やってきた。使徒28・14
イスラエルで始まったキリスト教を、トルコからヨーロッパ方面に布教したのがパウロという人でした。パウロは三回にわたってトルコやギリシア方面に旅をして、多くの人々にキリストを伝えました。聖書の時代、地中海地域はローマが支配していました。パウロはローマにも行き、その後にスペインに足を伸ばしたいとまで思っていました。
この願いは、神様の想いと一致します。そして、旅ではなく、ローマ皇帝への上訴のために、ローマに移送されることで、願いはかないます。しかしそこに至るまでには、ユダヤ人たちによる不当な起訴、ローマ総督たちの不正な裁判、船で移送中にあった海での遭難など、たくさんの苦労がありました。
キリスト教と聞くと、ヨーロッパの大聖堂を思い浮かべる方もあると思います。その土台を作ったのがパウロという人でした。そのキリスト教がローマで公認され、主に英国や米国をへて、日本にまで伝わったというのは何とも不思議な気がします。そこには多くの人たちの苦労がありました。同時に、世界中にイエス・キリストを伝えることは神様の願いでもあったのです。
2024年5月12日(日) 本当のイエス
これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け。マタイ17・5
実は資産家で不労収入がたくさんあるけれど、近所の人にはそのことを隠してパートに出ている、という人の話を聞きました。本当の自分が知られてしまうと近所付き合いがしにくくなると考えてそうしているのだそうです。
イエス・キリストもまた、本当の自分の姿を見せずに教えを説いていた方でした。十二人の特別な弟子たちの中の、さらに三人だけを連れて山に登ったイエス・キリストは、太陽のように輝き、旧約聖書の偉人たち(モーセ・エリヤ)と語り合ったのです。キリスト教ではこのできごとを「キリストの変容」と呼んでいます。しかし光り輝くイエス・キリストの姿こそ、本来の姿であり、人間としてこの世界で生活していた姿こそ、仮の姿でした。本当の姿、神であることを捨てて人間になったイエス・キリストの謙遜もまた圧倒的なものです。
圧倒的な輝きを持つ方、神である方が、人間となって生きたこと。そして十字架にかかったこと。それらはすべてわたくしたちを救い、永遠のいのちを与えるためであること。これが、キリスト教の教えの中心であり、驚くような神の愛の本質です。
2024年5月5日(日) 十字架を負って
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。マタイ17・5
「十字架を負う」ということばは「いつまでも消えることのない罪や苦難を身に受ける」という意味で使われます。辞書には「キリストが人類の罪を背負って十字架にかかった」という聖書の物語からこのことばができたと書かれています。
しかし聖書で「十字架を負う」ということばは、そのような慣用句とはまったく違う意味です。まず、「十字架を負う」とは、ローマの死刑囚が自分がかけられる十字架の横木を背負わされて、市中を引きまわされ、さらしものにされることを意味しました。
しかし別の面から見ると、イエス・キリストが十字架刑を受けることは、人類救済のための神様の計画でした。「十字架を負う」とは、自分を捨て(自分の思いや自分の考えを脇に置いて)神の計画(神の思い、神の意思)に従うことを選ぶという意味です。そこには苦難もありますが、幸福もあります。苦しみも、幸せも含めて人生すべてを神様に任せて従うことが「十字架を負う」ことなのです。
2024年4月28日(日) 主の栄光の前に
主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。
出エジプト24・16
みなさんは神様を見たことがありますか。
見たことがあるという方は少ないと思います。神社には御神体と呼ばれるものがあります。しかしこれは神様そのものではなく、神様が常世から現世に来られたときに宿る依り代とのことです。
なぜわたくしたちは神様を見ることができないのでしょうか。第一に、神様が別の世界に住んでいるからです。聖書では神様のいらっしゃる場所を「天」と呼びます。人間はいまは天に行くことはできません。第二に、あまりにも畏れ多いからです。太陽を直接見ると目がだめになってしまいます。同じように、聖書の神様は栄光に満ちあふれており、人間が見ると死んでしまうのです。
シナイ山を覆う雲は、神様がそこにいることを表していました。大切なことは神様を見ることではなく、神様がいっしょにいてくださることを日々感じながら生きることです。キリスト教の神様は、聖書のことばと目に見えない助けや導きで、わたしたちと毎日いっしょに歩いてくださる方です。
2024年4月21日(日) 難破船の中で
みなさん、元気を出しなさい。私は神を信じています。使徒の働き27・25
みなさんは神様を信じたらどんな良いことがあると思われますか。
「神様が苦しい時に助けてくれること」「お願いしたら欲しい物を与えてくれること」「危険から守ってくれること」「幸せになれること」など、いろいろな期待があると思います。信者からよく聞くのは「神様は平安を与えてくださる」ということばです。平安というのは教会独特のことばですが、要は安心や、心の平和のことです。「心配なことがあっても、神様がいてくれるから安心だ」と思えるなら、神様を信じたかいがあるでしょう。
でもそれだけではありません。神様を信じると「神様から受けたものを人に分かち合うようになれる」という良いことがあります。パウロという人が、ローマに船で移送される時に、大嵐になり船が難破してしまいました。しかしパウロは神様から必ず助かるという約束と安心をいただいていました。そして、沈みそうな船の中で恐れる人たちを「元気を出しなさい」と励ましたのです。
神様からもらった安心や元気を周りの人たちと分かち合う。そうすれば、みんなが不安から解放されて心が平和になる。わたしたちは、そのようにして幸せの輪を広げたいと思っています。
2024年4月14日(日) 開かれた門
見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。
ヨハネの黙示録3・8
新年度を迎え、進学、進級、就職で新しい環境での生活を始めたという方もいらっしゃるでしょう。また、これを機に新しいことにチャレンジしているという方もいらっしゃるかもしれません。希望の門が開かれて、新しい世界に進む。そんなみなさんのために祝福を祈ります。
一方で、世界を見渡すと良いニュースばかりではありません。長引く戦争、経済の不安、政治家の不正など難しい問題が山積みです。また、一人ひとりの生活の中でも、病気、子育て、家族、経済など厳しい現状に置かれている方もいらっしゃるかもしれません。
しかしわたしたちは厳しい時代にも希望を抱いています。わたしたちに問題解決の力がなくても、イエス・キリストが助けを与え、門を開いてくださるからです。そしてその門は、永遠のいのちの道へと続く門だからです。ぜひ教会においでください。そして、イエス・キリストの希望の物語に耳を傾けてくだされば幸いです。
2024年4月7日(日) 新しい出発
道々お話くださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。 ルカ24・32
みなさんは心にぽっかり穴が開くという経験をされたことはありますか。一生懸命取り組んでいたことが終わった。大切な人を失ってしまった。頑張っていたことが無駄になった。そんな時、心にぽっかり穴が開いて何のやる気も出ないということになることがあります。
イエス・キリストが十字架で死んだ時、弟子たちもそんな気持ちでした。人生を賭けてついていったイエス・キリストがいなくなり、何をしたら良いのか分からなくなってしまったのです。ある二人の弟子たちもそんな気持ちで、エルサレムを離れ、エマオという村に向かいました。
しかしエマオへ向かう途上で、イエスは弟子たちの前に現れ、道々聖書を説き明かしました。その時にはイエスだと気づかなかった弟子たちでしたが、食卓でパンを裂いたとき、その人がイエスだと気づきました。弟子たちは、再び人生の意味を見出し、イエスの復活を知らせるためにエルサレムに戻ります。
イエス・キリストは生きる意味を与えてくださるのです。