パンのかけら

聖書のことばと短いおはなし

2024年3月24日(日) 十字架の栄光

わが神、わが神、どうしてわたしを

お見捨てになったのですか。

マルコ15・34

「神に見捨てられる」とどうなるか考えたことがありますか。お願いをしても聞いてもらえなくなるのでしょうか。それとも罰が当たって不幸になるのでしょうか。そうではありません。「神に見捨てられる」とは、神と関係なくなるということです。神と関係なくなれば、神の持つ愛や真実、自由や希望、いのちとも関係がなくなります。残るのは、憎しみや嘘、不自由や絶望、病気や死です。

神様はだれを見捨てるのでしょうか。それは神を見捨てる人です。どんなに手を差し伸べても拒み、正しい道を示しても背き続ける人です。神様がその人を見捨てる前に、その人が神を見捨てたのですから、どうしようもありません。

しかし、神様はイエス・キリストを十字架の上で見捨てることによって、神を見捨てた人たちが立ち返る道を作ってくださいました。それがキリスト教の言う救いです。限られた紙幅では語りきれない神様の愛について、知っていただけたら嬉しいです。ぜひ教会においでください。ひとり子を十字架にかけた神様の愛をお伝えさせてください。

2024年3月17日(日) アグリッパへの証

私が願っているのは、あなたばかりではなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。使徒26・2

パウロユダヤ人たちの訴えにより裁判にかけられますが、だれもパウロの犯罪を認めることはできませんでした。訴えの内容はユダヤ人の宗教問題であり、ローマの法律とは関係なかったからです。しかしこの話に若干の興味を持ったアグリッパ王(ユダヤの領主)がローマ総督フェストゥスの計らいで、パウロの話を聞く機会を得ます。

パウロはかつてはキリスト教徒たちを迫害していたが、イエス・キリストの声を聞き、キリストの十字架と復活を伝える者に変えられたという体験談を語ります。アグリッパ王はキリスト教徒になるように説得されていると感じ、話を打ち切りますが、それほどにパウロの話は説得力がありました。キリスト教に関心がある方がありましたら、聖書の教えも良いですが、信者の体験談を聞いていただければと思います。キリストがどんな方か知るにはその方がよいかもしれません。

2024年3月10日(日) イエスはだれなのか

あなたは生ける神の子キリストです。

マタイ16・16

エスとはだれですか?

もしそう問われたらみなさんはどう答えるでしょうか。ある人は、立派な宗教家だと答えるでしょう。また歴史上の人物だと答える方もあるでしょう。キリスト教の教祖だというのもひとつの答えです。伝説上の人物で実在しないという説もあるでしょう。

聖書の時代、人々はイエス預言者だと考えていました。しかし弟子たちは、「あなたがたはわたしをだれだと言うか」というイエスの問いに、「あなたは生ける神の子キリスト(救い主)だ」と答えました。立派な宗教家でも、預言者でもなく、神から派遣されてきて、この世界を救う人なのだと。

この告白はいのちがけのものでした。なぜなら、救い主ということばはローマの圧政からイスラエルを解放する王を意味したからです。イエスを救い主であると告白することは、ローマへの反逆とされ、処刑される危険さえありました。わたしたちもイエスを救い主だと信じ、告白します。そして救い主である方に人生をすべて任せます。「そんな人生本当にあるの?」と、思われた方。ぜひ教会においでください。イエスが救い主であることをいっしょに経験しましょう。

2024年3月3日(日) 警戒すべき教え

パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。マタイ16・11

イエス・キリストが活動していた一世紀初頭、イスラエルの最高法院(国会のような機関)の二大派閥がパリサイ人とサドカイ人でした。宗教的な主張が正反対で、政治的にも対立していた両者でしたが、イエス・キリストを陥れるために共謀してやってきました。彼らは、イエスが神から来たものであることを示す奇蹟を見せるように要求しました。しかしイエスは、自身の十字架と三日後の復活以外には奇蹟は与えられないと答えます。

時々、聖書の奇蹟物語が非科学的だからキリスト教は信用できないとおっしゃる方があります。しかし、一般的に宗教には、非科学的な部分があります。なぜなら、宗教は科学では説明できない、死後の世界や、神の存在などを取り扱うものだからです。

キリスト教は教えが体系化され、「神学」という学問が営まれてきました。しかし、それでも結局は「信じるか、信じないか」です。そもそも世の中、科学では説明できないことだらけ、エビデンスが示せないことだらけです。人間の科学で説明できる程度のことなら神様は不要です。理解できたから信じるのではなく、信じたから理解できる、というのがキリスト教であり、聖書なのです。

2024年2月25日(日) 父と母を敬え

あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

出エジプト20・12

父と母を敬うというのは、聖書だけが教えていることではありません。日本でも昔から親孝行が大切にされてきました。両親を敬うことは人類共通の価値観です。ただ、聖書の教えには三つの特徴があります。

第一に、この教えは大人向けに教えられているということです。子どもは、自分の親が祖父母をどう扱うかを見て、この教えの意味を学ぶのです。第二に、この教えは心の中で敬うだけではなく、生活の面倒を見るという意味を含んでいます。自分の両親の介護や経済的援助の責任を負うのです。第三に、この教えは個人向けの教えではなく、社会全体に対する教えです。高齢者を大切にする社会を作れば、みんなが長生きできて、幸せな社会が実現します。

キリスト教は、親や高齢者を大切にする宗教です。確かめたい方は、いちど教会に来て、信者の様子を見ていただければと思います。

2024年2月18日(日) 何の罪もないまま

私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルにたいしても、何の罪も犯してはいません。使徒25・8

パウロは初期のキリスト教会の中で、特にユダヤ人以外の人たちにキリストの教えを布教したことで有名です。当時のユダヤ人たちから見ると、キリストの教えはユダヤ教の異端であり、敵でした。ユダヤ人の宗教指導者たちは、パウロがキリストの教えをトルコ、ギリシア地方に広めたことが許せませんでした。

パウロはまずユダヤ人の最高法院で吊し上げられ、次にユダヤ総督のもとで裁判を受け、カエサルローマ皇帝)に上訴することになります。前ユダヤ総督であったフェリクスも、後任者のフェストゥスも、パウロが無罪であると分かっていましたが、無罪判決を出すことはしませんでした。パウロを嫌うユダヤ人たちの中に暴動が起きそうだったからです。自分の任期中に問題を起こしたくなかったので、問題を先送りしたのでした。

パウロは冤罪で二年以上拘留されていました。しかし希望を失いませんでした。イエス・キリストに、ローマで教えを語るのだと言われたからです。自分の正当性を示すよりも、使命を果たすことを優先したのでした。

2024年2月11日(日) 選ばれた者への命令

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

マタイ15・17

イエス・キリストが命令したことが二つあります。一つはイエス・キリストの教えを伝えることです。そしてもう一つが愛し合うことです。キリスト教会はこの二つのことをするために存在しています。この場合の愛し合うとは男女の関係のことではなく、キリストの弟子たちの間でお互いに、仕え合うという意味です。

愛し合うことはとても難しいことです。なぜなら、わたくしたちは自分がいちばんだからです。人を愛するということは、自分の時間や労力やお金を他人のために使い、見返りを求めないということです。親が子どもに注ぐ愛情が、これに近いかもしれません。

教会では、信者たちがお互いに愛し合うことを目指しています。礼拝の後、お互いの話を聞いてお祈りする時間があります。お互いのことを心配し合い、気に掛けることが愛し合うことの第一歩です。イエス・キリストが十字架にかかってまで、わたくしたちを愛してくださったので、それに見習いたいと思うからです。そんなほっとする時間を経験したい方はぜひ、教会へおいでください。