パンのかけら

聖書のことばと短いおはなし

地に平和

地に平和

 

いまから約二千年前。イエス・キリストユダヤベツレヘムで生まれました。動物の餌を入れる飼葉桶に寝かされたイエス・キリストを最初に拝んだのは、社会的に低くみられていた羊飼いたちでした。野宿していた羊飼いたちに、天使が救い主の降誕を知らせたのです。

聖書には、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたときに歌った歌が記録されています。その天使の歌をわかりやすく言い直すと次のようになります。

 

神様のいる天では、神様に栄光があるように

人々の生きている地では、平和があるように

それこそが神様の願いにかなうことです

 

イエス・キリストは将来十字架にかけられるために生まれます。それはイエス・キリストの父である神様にとって、つらく、苦しいことです。また、処女のマリアが子を宿すということも、当時の社会では許されざることであり、マリアとヨセフ夫妻は大変な思いをしました。

けれども、神様は、つらく苦しい思いをしてイエス・キリストを十字架にかけても、人間を救いたいと願っていました。神様は自ら苦難を背負ってイエス・キリストを生まれさせ、わたくしたちを救い出すという思いを成し遂げたのです。そのことを天使たちは神様の栄光だと歌うのです。

そしてそのことは、人間の中に平和をもたらすできごとでもありました。キリスト教で言う「救い」とは「関係の回復」のことです。神イエス・キリストが来ることによって、神と人との関係が回復し、人間関係の傷がいやされる道が開かれました。そうしてわたしたちは死と孤独から救われます。

毎年迎えるクリスマスは、そのことを思い出す時です。身近な人を愛すること。苦しんでいる人たちを思うこと。クリスマスを孤独の中で過ごさねばならない人とつながること。疫病と戦っている人を支えること。戦禍の中にある人々を思うこと。キリスト教信者であるなしにかかわらずそのような善意をもっている方々の祈りが神様に届きますように。そして新しい年に平和がありますように。

2023年12月24日(日) わたしがわたしたちになる

今日ダビデの街で、あなたがたのために

救い主がお生まれになりました。この方

こそ主キリストです。マタイ14・30

イエス・キリストの降誕物語はしばしば、星の光る静かな夜のしあわせなできごとであるかのように描かれています。しかし、そこにあるのは、美しく暖かいできごとではなく、痛みと苦しみと孤独です。

マリアの処女懐胎は、聖霊によるものでしたが、そんなことだれが信じるでしょうか。不貞を疑われたマリアとヨセフは、だれにも理解されない孤独の中で苦しみに耐えなければなりませんでした。マリアは客間で出産することが許されず、出産後にだれも祝いのことばをかけることもありませんでした。

また神にとってイエス・キリストを地上に送ることは、自分の一人息子を十字架にかける決断をすることでした。神はこれ以上ない痛みを負ってマリアのもとにイエス・キリストを生まれさせたのです。

このような大きな犠牲を払ってまで、神が成し遂げたかったのは、わたしたちを死と孤独から解放することです。これがキリスト教の「救い」です。それゆえクリスマスは神から与えられたいのちと愛を静かに喜びあう日なのです。

2023年12月17日(日) 光が先にあった

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1・5

今年はさまざまなことがあった年でした。野球では、大谷翔平選手の大活躍とMVPや阪神タイガースの優勝など明るい話題もありました。コロナがいったん落ち着いたことで、日常生活が少し戻ってきたのも良かったことでしょう。一方で、政治家の不正や、芸能界の驚くべき犯罪、相次ぐ戦争など、暗いニュースも多い年でした。

しかしどんなに暗いできごとが多くても、世界が闇に覆われていても、光があります。それがイエス・キリストです。

光は、まずいちばん身近なところを照らします。イエス・キリストによって、わたしたちは自分がどのような者なのか、自分はいまどのように生きているのかを知ります。また、光は道を照らします。イエス・キリストは、聖書のことばを通してわたしたちの人生を導きます。また、光は人に安心を与えます。イエス・キリストはわたしたちの心に安らぎを与え、暖かな人間関係を作ります。

イエス・キリストは世界の問題を解決するために後から来たのではなく、世界の初めから光として存在している方です。わたしたちは、この光をみなさんに分かち合いたいと願っています。ぜひ教会においでください。

2023年12月10日(日) 帰るべきところ

主を求めよ。お会いできる間に。

呼び求めよ。近くにおられるうちに。

マタイ14・30

クリスマスが近づくこの季節、わたしたち信者は二つのことを思います。

第一に、約二千年前に生まれてくださったイエス・キリストのことです。このイエス・キリストが救いの道を開いてくださったことを心に留め、礼拝します。

第二に、もう一度この世界に来られるイエス・キリストのことです。二度目に来られるイエス・キリストはこの世界をさばき、悪を滅ぼし、天と地は再創造されて新しくなります。

「世界をさばく」と聞くと、恐怖を感じる方があるかもしれません。けれどもこ悪がそのままにされ、悪人が楽しく生きる世界は良い世界ではありません。みなさんが心配になるのは、自分が悪人だとの判決を受け滅ぼされることでしょう。

しかし聖書は、今ならまだ間に合うと教えています。イエス・キリストがもう一度来られる前に、神様を求めて、滅ぼされることのない生き方を選べば、何の心配もありません。イエス・キリストのもとに帰ることこそ、わたしたちに与えられた救いの道なのです。

2023年12月3日(日) 主よ、助けてください

ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので「主よ、助けてください」と叫んだ。

マタイ14・30

深夜のガリラヤ湖で、小舟に乗り込んだ弟子たちは強風のために漕ぎあぐねていました。そんな弟子たちの舟に、水の上を歩いて近づいてきたのは、イエス・キリスト。思わず「幽霊だ!」と叫ぶ弟子たちに、イエスは「わたしだ、もう怖がらなくていい」と安心させるのでした。

すると何を思ったか弟子のペテロが「水の上を歩いてそこまで行かせてください」とイエスに願い出ます。イエスが「来なさい」と招くと、ペテロは水の上を歩いてイエスに近づきました。ところが…ということばが、上に書かれた聖書のことばです。

イエス・キリストと人がいたという歴史的な事実を否定する人はあまりいません。しかし、イエス・キリストが神様で、水の上を歩くようなことができたのだとなると首を傾げる人が多いでしょう。しかしわたしたちは、イエスが神様であることを信じて頼っています。イエスがただの過去の立派な人物というだけならば、祈ったり頼ったりしても、何の効果も期待できないからです。

キリスト教の暦 待降節(アドベント)

降誕節(クリスマス)が近づいてきました。キリスト教の暦ではクリスマス前の一ヶ月ほどを待降節アドベント)と呼び、キリストを待ち望んで生活します。今年の待降節は十二月三日から二四日です。

最近はこの季節を楽しむものとして、アドベントカレンダーが広まってきました。二四日まで毎日ひとつづつ窓を開けると、小さなお菓子が入っているのものなどが、よく見られます。キリスト教とは関係なくても、クリスマスを楽しみに待つために家に飾っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この「アドベント」ということばは、もともと偉大な人物を待つという意味です。そこから「キリストを待ち望む」という意味になりました。

実はこの「キリストを待ち望む」ということには二つの意味があります。一つは、約二千年前に赤ちゃんとして生まれてくださったキリストを待ち望むという意味です。これは、クリスマス(キリストの礼拝)を待ち望むということです。

もう一つの意味は、これからもう一度この世界に来られるキリストを待ち望むというものです。聖書には、キリストがもういちどこの世界に来られ、すでに死んだ人も生きている人も、みんなキリストにさばきを受けることが書かれています。またいまある天地が新しい天と地、新天新地に造り直され、そこで永遠のいのちをもって、神と人とがともに生きることが預言されています。

そういう意味で、待降節アドベント)は、キリストが再び来られた、喜んでお会いできるように、いまの自分の生活を省みるときとなります。年末の忙しい時期、クリスマス気分で浮かれる時期ですが、改めて聖書のことばに心を向け、自分の周りの人たちを助け、心を静めてキリストを思う。そんなふうにこの時期を過ごしています。

2023年11月26日(日) 聖なる主の前に

あなたがたはあらゆる民族の中にあって、
わたしの宝となる。出エジプト19・5

人格と知恵が優れている人のことを「聖人」と呼びます。また、簡単に触れることができない領域のことを「聖域」と言います。「聖職」というと、宗教家だけではなく、学校の先生や警察官なども入るでしょう。これらのことばに共通するのは「他とは違う特別なもの」というイメージです。

聖書に出てくる「聖」にも、他とは違う特別なもの、切り離されたものという意味があります。わたしたちが努力して特別なものになるのではなく、神様がわたしたちを特別なものとしてくださるというのが聖書の教えです。上に書いた「あらゆる民族の中にあってわたしの宝となる」ということばは、イスラエルに対して神様が言ったことばです。イスラエルはエジプトから助け出してくださった神様への恩も忘れ、荒野の旅で不平ばかり言う残念な人たちでした。でも、そんなイスラエルを神様が特別なものとして、愛してくださったのです。

同じように、キリスト教信者もまた立派だから信者になったのではありません。神様が愛して宝のように大切にされていることがわかったから信者になったのです。もし自分に自身が持てないと心配しておられる方がいたら、ぜひ教会においでください。神様に宝物のように扱われる喜びをともに味わいましょう。