パンのかけら

聖書のことばと短いおはなし

2024年2月4日(日) 異邦人にも注がれる恵み

人々はみな、食べて満腹した。

そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。マタイ15・37

イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚を五千人の人に分けたという物語があります。しかしマタイの福音書にはもう一つ、七つのパンと小魚を四千人に分けたという物語も記録されています。実は、似たような奇跡物語が二つも収められている理由は奇跡を行った相手が違うからなのです。

五千人にパンを分けた相手はユダヤ人の群衆でした。四千人にパンを分けた相手は異邦人(ユダヤ人ではない人々)でした。当時のユダヤ人たちのほとんどは、神の恵みを受けるのは自分たちだけだと考えていました。イスラエルの神を信じていない異邦人は、神の恵みを受けるに値しないと受け止めていたのです。

しかし、イエス・キリストユダヤ人にも異邦人にも等しく神の恵みを注ぎました。当時の人々にも、また現代の人々にも、選民意識や民族差別が根強くあります。宗教の違いを差別の理由の一つと考える人もいます。しかし、イエス・キリストこそが、あらゆる民族の壁を撤廃し、一切の差別なく神の恵みを注いでくださった方なのです。

2024年1月28日(日) 安息日の祝福

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

出エジプト20・8

無神論者でも、仏教徒でも、イスラム教徒でも、キリスト教が嫌いな方でも、だれもがキリスト教の恩恵を受けていることがあります。それは「一週間が七日であり、そのうち一日は休日」というカレンダーです。このカレンダーが世界中に広がったのは、キリスト教の影響であると言えるでしょう。

「神は六日間で世界を創造し、七日目を安息日と定めて休んだ」という物語がもともとの由来です。イスラエルの人々は長年エジプトで奴隷生活をしていました。定まった休日はおそらくなかったでしょう。エジプトから脱出し、神様の導く約束の地に入るとき、七日の一日の安息日が定められました。安息日は仕事をしないで、神様を礼拝し、心とからだを休める日となりました。これは、奴隷であったときには考えられないすばらしい祝福です。

最近「社畜」「ブラック企業」などの嫌なことばを耳にします。休みなく働かされることで、会社の奴隷になっているような気持ちにもなるでしょう。一週間に一日さえゆっくりできないのは、人間らしい生き方ではありません。キリスト教信者が日曜日に集まって礼拝するのは、それが何者の奴隷でもない証拠であり、神様の定めた人間らしい生き方だからです。

2024年1月21日(日) フェリクスへの証

しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり…使徒24・25

フェリクスはローマから派遣されてイスラエルを治めていた総督でした。もともと解放奴隷でしたが、暴力と賄賂で権力をつかみ、暴君と呼ばれたネロ皇帝に気に入られて総督の地位を手に入れたという人物でした。

ユダヤ人たちがいわれのないことで告訴したため、裁判の権限を持つフェリクスのもとにパウロが送られてきました。フェリクスはパウロの無罪に気付きましたが判決を延期します。パウロを勾留してキリスト教の話を聞くためと、パウロから解放と引き換えに賄賂を受け取るためです。

パウロはフェリクスに呼び出されても賄賂を送ることはしませんでした。むしろキリストの教えを語りました。フェリクスは正義と節制と来るべきさばきの話を聞いて恐れました。自分がどのようなことをしてきたのか自覚していたからです。生殺与奪の権限を持っているフェリクスよりも、無実の罪で勾留されているパウロの方がはるかに自由だったのです。

信仰・信用・信頼

「信仰」ということばは、キリスト教に限らず、神や宗教を信じる場合に使います。辞書を引くと、「神仏などを信じてあがめること。また、ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること」とあります。たしかに、キリスト教でいう信仰もまた、神やイエス・キリストを信じてあがめることであり、聖書の教えを自分のよりどころとすることです。しかしそれは、心の中の内面的な信心に留まるのではなく、イエス・キリストを信頼して生きる生き方のことです。

このことをより分かりやすくするために、「信用」と「信頼」の二つのことばを比べてみます。

信用とは過去の実績に基づいて、相手を信じても大丈夫だと評価することです。「あの人は今まで秘密を人に話したことがないから大丈夫だ」というのが信用です。

信頼とは、相手を信じて頼りにすることです。「あの人は今まで秘密を人に話したことがないから、悩みを相談しよう」というのが信頼です。心から信頼できる人からアドバイスをもらったら「その通りやってみよう」と思えるでしょう。キリスト教信仰とは、イエス・キリストを心から信頼して、頼りにする生き方のことです。

イエス・キリストはさまざまな方法で、わたくしたちを助けたり、導いたり、時には間違いをただしたりします。あるときは聖書のことばを通して、あるときは祈りを通して、あるときは、同じキリストを信じる他の人のことばを通して、あるときは礼拝の中で語られる牧師のことばを通して…このようなイエス・キリストの語りかけを受け止め、それに頼り、それに従うことがキリスト教で言うところの信仰です。

自分の願いがかなうことや、都合のよいことばかり願うのが信仰ではなく、時には耳の痛いことも聞き入れる。そうしてイエス・キリストに全面的に人生を任せるのです。

2024年1月14日(日) 立派な信仰

女の方。あなたの信仰は立派です。

マタイ15・28

一昔前は「キリスト教は欧米の宗教だ」とよく言われました。けれどもキリスト教の発祥地はイスラエルで、欧米ではありません。欧米は長らくキリスト教を土台とした社会で、キリスト教文化が広がっていましたが、最近では価値観の多様化や、イスラム系移民の増加で、キリスト教一色の社会ではなくなりました。現在キリスト教が盛んなのは、韓国、アフリカ、南米などです。キリスト教が日本の宗教の一つになる日が来るかもしれません。

イエス・キリスト自身がまず民族の壁を破って、教えを伝えました。一世紀のイスラエルでは、神から選ばれた自分たちだけが救われると、多くのユダヤ人たちが考えていました。しかし、キリストはあえてイスラエルの領土を出て、外国人の女性と対話し、その女性の信仰が立派だとほめました。

逆に、聖書の学者たちを「口先だけの信仰」と評し、自分の弟子たちを「信仰が薄い」と叱りました。そう思うと、キリスト教の領外である日本にこそ、外国人の女性のような立派な信仰を生きる可能性があるのかもしれません。立派な信仰とは、その人の信心が立派なのではありません。イエス・キリストを純粋に信頼し、ただそのあわれみにすがる謙遜な生き方こそが立派な信仰なのです。

2024年1月7日(日) 口先だけの信仰

この民は口先でわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

マタイ14・30

聖書には「父と母を敬え」という教えがあります。十戒と呼ばれる、大切な教えの一つです。このことばには、ただ精神的に敬うだけではなく、高齢になった両親を経済的にも支えて世話をするようにという意味があります。

親のためにお金を使いたくないという輩が聖書の時代のイスラエルにもいました。しかし、聖書の教えを破るのはまわりの目があってできない。そこで、聖書の学者たちは「自分の財産は神様のものです」と宣言していくらかの献金をすればよいという抜け道を編み出しました。「神様にささげた財産なので、親のためには使えない」という屁理屈です。

イエス・キリストは、聖書の教えを守って信心深いふりをしながら、実際には聖書の教えを自分たちの理屈で骨抜きにしている学者たちを「偽善者」と呼んで叱りました。聖書は規則やルールを教えているのではなく、わたしたちが幸せに生きる道を教えているのです。財産を神様にささげた人たちが歳をとったら、自分の子どもたちに同じことをされても文句は言えないのですから。

2023年12月31日(日) 新しい王をさがして

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、その方の星が登るのを見たので、礼拝するために来ました。マタイ14・30

イエス・キリストが降誕してから数ヶ月ほどたった頃、東方(ペルシアかアラビアあたり)の博士たちを含む使節団がエルサレムに来訪しました。彼らは、新しい王は、王家に生まれたと考え、ヘロデ王に謁見したのです。しかし、そこには新しい王はいませんでした。

新しい王はエルサレムから数キロ離れたベツレヘムという寒村に生まれたイエス・キリストでした。東方の使節団はこの家を訪れ、イエス・キリストを礼拝し、黄金・乳香・没薬という贈り物を送ります。ヘロデ王や宗教指導者たちは、救い主の降誕を異国の博士から知ることになったのです。

異国の博士に届けられた救い主降誕の知らせは、日本に住むわたしたちにも届けられています。いっしょにイエス・キリストを礼拝しませんか。